その匂いは、本当にシーバスのものか

河川で釣っていると、ふっと土のような匂いがして、その直後に釣れることがあります。ブラックバスでも同じ匂いがしました。手がかりを並べて候補を絞り、公開データで裏を取ると、魚ではなく淡水の微生物に行き着きます。

河川で釣っていると、ふっと匂いがすることがあります。その直後に釣れることがある、という話は釣り人の間でも聞きます。

この記事は、自分の経験を出発点にして、公開されているデータで裏を取ったものです。 匂いを嗅いだのは私の経験ですが、何が匂っていたのかを測ったわけではありません。 以下の説明は、資料と計算から組み立てたものです。

問いは1つでした。水の中にいる魚の匂いが、空気中の人間の鼻に届くことがあり得るのか。

調べたら、問いの立て方が間違っていました。

手がかりを並べます

自分の経験から、絞り込みに使えることが5つあります。

内容
1ブラックバスを釣ったときにも、同じような匂いがした
2この匂いは河川で感じる。 サーフや港湾で同じ匂いがした記憶はない
3土のような匂いだった
4大潮の下げ潮で、流れが速かった
5直前に増水はなかった

場所は、上流に富栄養化した止水域がある河川の中流域です。時期は2023年9月でした。

人間の鼻がどれだけ敏感か

先に、比べる物差しを置いておきます。

日本環境衛生センターの永田好男が、223種類の物質について嗅覚閾値を測定しています。総務省の資料に表が載っています。

物質匂いの種類嗅覚閾値
ジオスミン土臭・カビ臭0.0065 ppb
トリメチルアミン魚の腐敗臭0.032 ppb
硫化水素ゆで卵0.41 ppb
硫化メチル磯の香り3 ppb
ベンゼン石油系2,700 ppb
アセトン除光液42,000 ppb

桁が7つ違います。

同じ資料は理由も説明しています。閾値が低い物質は、どれも大昔の人間が生きていくために必要だった匂いです。 腐った食べ物、焦げ臭、カビ臭、糞便臭。逆に石油系の匂いには鈍い。 大昔の人間は嗅いだことがなかったからです。

いちばん敏感なのはジオスミンでした。1兆分の6.5です。

候補を1つずつ外します

磯の香りではありません

海辺で嗅ぐ「磯の香り」の正体は硫化ジメチルです。海藻と植物プランクトンが作るDMSPという物質を、微生物が分解してできます。

この物質はよく調べられています。海水の表層は常に過飽和で、絶えず大気へ出続けています。 谷本ら (2014)は船から吊るしたブイで、海面から14メートルまでの濃度を測り、風が強いほど多く出ることを示しました。海鳥がこの匂いを頼りに餌場を探していることまで分かっています(Nevitt ら, 1995)。

ただし、今回の匂いはこれではありません。

作っているのが海の生物だからです。 ブラックバスがいる淡水域には、供給源がありません。手がかりの1と2で外れます。

生臭さでもありません

魚の生臭さの主成分はトリメチルアミンです。ただし、生きている魚からはほとんど出ません。

もとになっているのはトリメチルアミンオキシドで、これ自体は無臭です。水揚げ後に細菌が分解することで、トリメチルアミンに変わります。

そして、トリメチルアミンオキシドは海水魚に多く、淡水魚には少ない物質です。

におい・かおり環境学会誌の総説も、鮮度の良い魚肉のにおいはアルコールやアルデヒドなどの脂質の酸化物が重要で、アミン類が増えるのは鮮度が落ちてからだとしています。

釣った直後の、しかも淡水域の魚。条件が2つとも合いません。

残るのは、淡水の微生物が作る物質です

ジオスミンと2-メチルイソボルネオール。 水道の「かび臭」「土臭」の原因物質として知られています。

作っているのは淡水の藍藻類と放線菌です。千葉県の解説によれば、湖沼や貯水池で水温が上がると盛んに繁殖します。

そして魚がこの匂いを帯びることは、確立しています。 食環境衛生研究所の解説は、食品のクレーム事例として水源のかび臭に影響を受けた養殖魚や川魚が異臭を帯びるケースを挙げています。

手がかりの1から3が、すべて合います。

手がかりこの説明で説明がつくか
ブラックバスでも同じ匂いつく。魚種ではなく、淡水という環境が共通
河川で感じるつく。藍藻類と放線菌は淡水の生物
土のような匂いつく。ジオスミンは「土臭」と表現される

気象のデータで裏を取りました

残る手がかりは4と5、大潮の下げ潮と増水がなかったことです。ここは記憶なので、公開データで確かめました。

気象庁の水戸の観測値です。

日降水量平均気温最大風速
9月8日141.0 mm23.4 ℃10.3 m/s
9月9日9.5 mm26.7 ℃4.4 m/s
9月10日0.0 mm27.8 ℃4.2 m/s
9月11日から16日すべて 0.0 mm26 から 27 ℃台4 から 5 m/s
9月17日0.0 mm28.1 ℃3.8 m/s

記憶のとおりでした。8日連続で降水量ゼロ。増水はありません。

気圧も1014.4ヘクトパスカルで平常、風も3.8メートル毎秒です。 低気圧も強風もありません。

そのかわり、9日前に141ミリ降っていました。 1時間で39ミリという強い雨です。

潮回りも計算しました。2023年9月15日が新月です。

月齢潮回り
9月17日2.2大潮

記憶と合います。

筋道が1本につながります

並べるとこうなります。

141ミリの出水があった。そのあと8日間、雨が降らなかった。気温は28℃。そして大潮の下げ潮。

出水は栄養塩を運び込みます。そのあとの晴天と高い水温は、上流の浅い止水域で藍藻類が増える条件です。そして大潮の下げ潮は、そこに溜まった水がいちばん勢いよく流れ出るタイミングです。

「ふと香った」のは、その水が到達した瞬間ではないか。

増水がなかったことが、かえって説明を強くしました。 当初は「増水で底泥が巻き上がった」経路を考えていましたが、そうではなく「出水のあとに静かな8日間があった」ことが効いています。

なお、大洗の周辺には、この条件を満たす水系があります。 塩水くさびの記事で読んだ論文によれば、涸沼は平均水深2.1メートル、面積約9.3平方キロメートル、湖水交換に18から75日かかる湖です。1997年のCODは9.7 mg/Lで全国ワースト4位でした。浅くて、富栄養で、水が長く留まる。藍藻類にとっての条件がそろっています。

なぜ「ふと」香るのか

物理からも同じ結論が出ます。

水の中で、匂いは分子の拡散ではほとんど動きません。

広がる距離拡散だけの場合流れが0.3 m/sの場合
0.1 m72 日0.3 秒
1 m20 年3.3 秒
10 m1,982 年33 秒

運んでいるのは、すべて流れです。

その場で急に匂いが生まれることはありません。匂いのついた水が流れてきた、と考えるしかありません。

下げ潮なら、水は上流から下流へ流れます。 匂いの源は上流側です。汽水河川では、この向きが1日に何度も入れ替わります。 海水はどこまで川を上ってくるのかで扱ったとおりです。

匂いと魚は、同じ水に乗ってきたのかもしれません

ここまでを組み立てると、こうなります。

匂いのついた水が流れてきた。そして、その水と一緒に魚も動いた。

匂いが原因で魚が来たのではありません。 匂いは魚が出したものでもありません。水の動きという同じ原因が、匂いと魚の両方を動かしているという筋道です。

ただし、逆の見方もできます。 魚が群れで入ってきて水を撹拌すれば、底の泥や水中の物質が巻き上がります。この場合は魚が原因で、匂いが結果です。

どちらが正しいかを、私は決められません。 匂いと魚が同時に現れるという観察は同じで、因果の向きだけが逆です。

生きた魚も匂います。ただしスズキは測られていません

念のため、魚の側も確認しておきます。

生きた魚が匂う例は、確かにあります。アユです。

香りの主成分は 2,6-ノナジエナールで、キュウリの香りそのものです。体内の不飽和脂肪酸が酵素で分解されてできます。

由来の説明が2つに割れていますが、決め手になる観察があります。海でプランクトンを食べている時期の稚魚でも、アユの香りがします(国土交通省の水族館のページ)。藻類を食べていない段階で香るなら、藻類由来説は成り立ちません。

つまり、生きた魚が匂う仕組みは実在します。

ただし、スズキの香気成分を測った研究を見つけられませんでした。 魚は色をどう見ているのかでも同じ壁に当たっています。シーバスは釣りの対象として人気があるのに、感覚や体成分の測定データが見当たりません。

測られていない以上、この可能性は残ります。

釣りに何が言えるか

3つ言えます。

1つめ。匂いの源は、自分より上流側にあります。 水中で匂いを運ぶのは流れだけなので、これは物理的に決まります。汽水河川では、上げ潮と下げ潮でこの向きが入れ替わります。

2つめ。匂ったら、水が動いたということです。 匂いは拡散では動かないので、匂いが変わったこと自体が、水塊が入れ替わった証拠になります。

3つめ。上流に浅い止水域がある水系では、条件がそろいます。 出水のあとの晴天、高い水温、そして大潮の下げ潮。

言えないこと。 匂いの強さと釣果の関係を測ったデータはありません。 私の経験も、釣り人の間の言い伝えも、確かめられたものではありません。

確かめられるか

個人の釣行では確かめられません。

「良く釣れるルアー」の正体で計算したとおりです。匂った日と匂わなかった日で釣果に差があるかを判定するには、現実的でない回数が必要になります。

そして、匂って釣れた日は覚えていて、匂って釣れなかった日は忘れます。

ただし、記録を取ることには意味があります。 匂った日時、上げ潮か下げ潮か、直前の降水。釣果と関係なく、匂いが何に伴って現れるかを調べる材料になります。

降水量と気温と気圧は、気象庁の公開データから後で取れます。 この記事の裏取りも、そうやってやりました。現地で記録すべきは、匂ったかどうかと、その時刻だけです。

確かめられていないこと

釣り場で匂いを測っていません。 何が匂っているのかを特定するには、空気か水を採って分析する必要があります。この記事は、それをやらずに書いたものです。

ジオスミンだと決めたわけではありません。 5つの手がかりと矛盾しない、というだけです。同じ条件を満たす別の物質があるかもしれません。

匂いの記憶を、匂い物質と照合していません。 ジオスミンは「土臭」「カビ臭」と表現されます。私が嗅いだ匂いがそれと同じかどうかを、確かめる方法がありません。

1回の経験です。 季節の偏りがあるかどうかは記録していません。夏や冬に感じなかったのかは分かりません。

海で釣ったシーバスと比べていません。 同じ個体を同じ条件で比べたわけではなく、記憶による比較です。

上流の水を測っていません。 藍藻類が実際に増えていたか、ジオスミンが実際に流れてきたかを確かめていません。気象の条件がそろっていたことしか言えません。

水戸の観測値を使っています。 釣った場所の降水量ではありません。同じ日に釣り場だけ雨が降っていた可能性は、否定できません。

スズキの香気成分を測った研究を見つけられませんでした。 無いのか、私が探せていないだけなのかは分かりません。

因果の向きを決められていません。 水が匂いと魚の両方を運んだのか、魚が匂いを立てたのか。どちらも同じ観察を説明します。

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使ったもの・参考文献