魚は匂いで餌を見つけているのか
魚の化学感覚は桁違いに鋭く、ウナギは人間の700万倍の薄さでアミノ酸を感じます。ところが、その鋭さが餌探しに使われているかは魚種によります。マダイでは、嗅覚の応答の強さと餌に食いつく強さに相関がありませんでした。魚は餌以外のことも嗅ぎ分けています。
この記事の見出し
色が消える距離で、魚は何を頼りに餌を見つけているのかで、光が届かない距離では側線と嗅覚が残る、と書きました。その嗅覚を調べます。
知りたかったのは、魚が何を感じ取って行動を変えているのかです。餌を探すためだけに嗅覚を使っているのか、それとも別のことにも使っているのか。釣り場での自分の振る舞いが水中に何かを伝えているのかが気になったからです。
調べて書いた記事です。 使ったのは、公表されている論文と、自分の計算です。
濃度の単位について
以下、濃度を M という単位で書きます。モル毎リットルの略で、1リットルの水に何モル溶けているかを表します。
1モルは粒子の個数の単位で、およそ6.02 × 10²³個です。グリシンなら、1モルが75グラムにあたります。
| 濃度 | 1リットルの水に溶けているグリシンの量 |
|---|---|
| 1 M | 75 g |
| 10⁻³ M | 75 mg |
| 10⁻⁹ M | 75 ナノグラム |
| 10⁻¹⁴ M | 0.75 フェムトグラム |
指数が1つ下がるごとに10分の1になります。
味覚どうしで比べます
まず味覚です。同じ物質を、口で感じる濃度どうしで比べられます。
庄司隆行 (1999)によれば、グリシンとL-アラニンについて、次のような値が報告されています。
| 濃度 | グリシン | L-アラニン |
|---|---|---|
| 人間が味として感じる濃度 | 7.1 × 10⁻³ M | 1.8 × 10⁻² M |
| ウナギの味覚器が反応する濃度 | 10⁻⁹ M 付近 | 10⁻⁸ M 付近 |
| 比 | 710万倍 | 180万倍 |
そして、味覚の閾値が比較的高い魚種でも、人間より100倍から1000倍は感度が高いと書かれています。
身近な量に直します。25mプール1杯(25m × 10m × 水深2m = 500立方メートル)にグリシンを溶かすと考えます。
| 誰が感じる濃度か | 必要なグリシンの量 |
|---|---|
| 人間が味として感じる | 266 kg |
| ウナギの味覚器が反応する | 37.5 mg |
プール1杯に37ミリグラムです。
嗅覚は、人間と同じ物差しで比べられません
次に嗅覚ですが、ここで壁があります。
人間はアミノ酸を嗅げません。 アミノ酸は揮発しないので、空気に出てきません。鼻に届かないものは、閾値を測れません。
同じ物質で人間の嗅覚と魚の嗅覚を比べることが、原理的にできないということです。
魚の側の値はあります。庄司 (1999) によれば、嗅覚器のアミノ酸に対する閾値は、味覚器と同じかより低いことが多く、エイの一種では10⁻¹⁴ M付近と報告されています。プール1杯に0.4マイクログラムです。
ただしこれを「人間の何倍」とは言えません。 比べる相手がいないからです。
揮発する物質でなら、嗅覚どうしを比べられます
逆向きの比較ならできます。 空気にも水にも入る物質を使えばよいからです。
庄司 (1999) は酪酸の嗅覚閾値を挙げています。
| 動物 | 酪酸の嗅覚閾値 |
|---|---|
| イヌ | 10⁻⁸·²⁷ M |
| コイ | 10⁻³ M |
| ブリ | 10⁻³ から 10⁻¹·⁸² M |
イヌはコイより19万倍、ブリより最大282万倍敏感です。
同じ嗅覚どうしなのに、向きが逆になりました。
水に溶ける物質では魚が圧倒的に鋭く、揮発する物質ではイヌが圧倒的に鋭い。 どちらが優れているという話ではありません。住んでいる場所に合わせて、別のものを感じています。
感じている「匂い」の中身が違います
ここが大事なところです。魚が鋭いのは、人間が匂いだと思っているものに対してではありません。
におい・かおり環境学会誌の総説は、こう書いています。陸上の動物と違い、一生を水中で過ごす魚類は、アミノ酸やステロイドなどの揮発しない物質を高感度で受容します。
人間が嗅ぐ匂いは、空気に出てくる揮発性の物質です。魚が嗅ぐのは、水に溶けている物質です。 そもそも別のものを感じています。
上で見た酪酸の結果は、これで説明がつきます。 酪酸は揮発する物質、つまり陸の匂いです。魚にとっては、感じる必要のないものでした。
そして魚の味覚は甘味に応答しません。 別の総説によれば、ショ糖には反応せず、ペプチドや核酸、カルボン酸には反応して摂餌を誘引します。
魚にとっての「良い匂い」は、餌のタンパク質が分解してできる物質です。
鋭いことと、使っていることは別です
ここからが本題です。これだけ鋭いなら、餌探しは嗅覚でやっているはずだ。そう考えたくなります。
ところが、そうとは限りませんでした。
庄司 (1999) は、3つの報告を並べています。
1つめ。マダイでの実験。 小林と郷は、味覚の応答の大きさと、摂餌を引き起こす強さのあいだに高い相関を見つけました。 ところが嗅覚の応答の大きさと、摂餌を引き起こす強さのあいだには相関がありませんでした。
2つめ。ナマズ。 Holland と Teeter は、嗅覚を働かなくしたナマズが、正常に餌を探したと報告しています。
3つめ。ニジマス。 Valentincic と Caprio は、嗅覚を刺激するL-アルギニンが行動を引き起こすことを示しました。こちらは嗅覚が効いています。
魚種によって違います。
「鋭い感覚を持っている」ことと、「その感覚で餌を探している」ことは、別の問題でした。
嗅覚は、魚種で差が小さい感覚です
もう1つ、庄司 (1999) から重要な点があります。
味覚の応答スペクトルは、魚種によって違います。 そしてその違いは食性を反映しています。 何を食べる魚かによって、どのアミノ酸によく反応するかが変わります。
ところが嗅覚のほうは、魚種でほとんど違いません。
餌の種類を見分けるための感覚なら、食性ごとに違っていたほうが有利なはずです。 差がないということは、嗅覚は餌の識別以外のことに使われている可能性があるということになります。
これは私の解釈です。論文にそう書いてあるわけではありません。
では、嗅覚は何に使われているのか
はっきりした例があります。サケの母川回帰です。
Wisby と Hasler は、嗅覚を働かなくしたサケの40%が、生まれた支流とは違う支流に入ったと報告しています。
そして、川ごとに水の匂いが違うことが確かめられています。
庄司 (1999) は、洞爺湖水系と石狩川水系の6河川について、水に含まれるアミノ酸を分析しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| どの川にも多い | セリン、グリシン、尿素 |
| 一部の川にだけある | タウリンなど |
| 2河川にだけある | プロリン、グルタミン |
| 季節 | 冬期はすべてのアミノ酸濃度が低下する |
川ごとに、含まれるアミノ酸の顔ぶれが違います。 そして季節で変わる。河川の周辺の動植物に由来すると考えられています。
決定的なのはこの実験です。アミノ酸と塩だけで再現した人工の河川水が、本物の河川水とほぼ同じ大きさの嗅覚応答を引き起こしました。
川の匂いの正体は、アミノ酸の組み合わせだということになります。
手をすすぐと、サケが上るのをやめます
もう1つ、釣り人に直接関わる話があります。
L-セリンは、サケにとっての忌避物質です。
L-セリンは哺乳類の皮膚から出ます。 Brett と Mackinnon、そして Idler らの報告によれば、上流で人が手をすすぐと、サケが遡上を止めます。 1950年代の報告です。
魚は、餌を探すためだけに嗅覚を使っているのではありません。 危険を避けるためにも使っています。
匂いは、流れに乗ってしか届きません
物理から1つ言えます。
水の中で、匂いは分子の拡散ではほとんど動きません。
| 広がる距離 | 拡散だけの場合 | 流れが0.3 m/sの場合 |
|---|---|---|
| 0.1 m | 72 日 | 0.3 秒 |
| 1 m | 20 年 | 3.3 秒 |
| 10 m | 1,982 年 | 33 秒 |
運んでいるのは、すべて流れです。
つまり、魚が匂いを嗅げるのは、その匂いより下流にいるときだけです。 どれだけ鋭い嗅覚があっても、上流の匂いは届きません。
汽水河川では、この向きが1日に何度も入れ替わります。 海水はどこまで川を上ってくるのかで扱ったとおりです。
スズキのデータはありません
スズキの嗅覚や味覚を測った研究を、見つけられませんでした。
魚は色をどう見ているのかでも、その匂いは、本当にシーバスのものかでも、同じ壁に当たっています。
測られているのは、ウナギ、コイ、ナマズ、マダイ、ニジマス、サケ、エイ。 実験しやすい魚か、養殖や資源として重要な魚です。シーバスは釣りの対象として人気があるのに、感覚の測定データが見当たりません。
この記事に書いた数字を、そのままシーバスに当てはめることはできません。
分かったのは、餌以外のことも嗅ぎ分けているということです
この記事で追いかけたのは「餌を見つけているのか」でしたが、出てきた答えの多くは、餌以外のことでした。
| 何を嗅ぎ分けているか | 根拠 |
|---|---|
| 生まれた川 | 嗅覚を遮断すると40%が違う支流へ |
| 人間の存在 | L-セリンで遡上を止める |
| 餌 | 魚種による。マダイでは嗅覚と摂餌に相関なし |
餌探しがいちばんあいまいでした。
そして、嗅覚の応答スペクトルに魚種差が小さいという事実が効いてきます。 餌の識別のための感覚なら、食性ごとに違っていたほうが有利なはずです。差がないということは、魚種を超えて共通する何かを嗅ぎ分けているということになります。
川の匂いと、人間の匂い。この記事で出てきた例は、どちらも餌ではありませんでした。
釣りに何が言えるか
言えることは限られます。
1つめ。魚が反応するのはアミノ酸で、人間が匂いだと思うものではありません。 揮発性の香りは、水中ではほとんど意味を持ちません。魚にとっての匂いは、水に溶けたタンパク質の分解物です。
2つめ。匂いが届くのは下流だけです。 上流にいる魚に匂いは届きません。流れの向きが、匂いの届く範囲を決めます。
3つめ。手の匂いは、少なくともサケでは効きます。 L-セリンは哺乳類の皮膚から出て、遡上を止めさせます。シーバスで同じことが起きるかは分かりません。
言えないこと。 釣り場での自分の振る舞いが釣果に影響するかは、この記事では判定できません。 傷ついた魚から何か出るのか、血が水に入るとどうなるのか。そこは別に調べる必要があります。
確かめられていないこと
スズキの化学感覚を測った研究を見つけられませんでした。 無いのか、私が探せていないだけなのかは分かりません。
「嗅覚は魚種で差が小さいから、餌の識別以外に使われている」というのは私の解釈です。 論文にそう書いてあるわけではありません。
マダイ、ナマズ、ニジマスの3つの報告は、庄司 (1999) を通して知りました。それぞれの原論文には当たっていません。
サケの母川回帰と、L-セリンによる忌避の報告も、同じく庄司 (1999) を通して知りました。
河川水のアミノ酸組成は、洞爺湖水系と石狩川水系の6河川についての分析です。 関東の河川で同じことが言えるかは調べていません。
ルアーに匂いを付けた場合の効果を測ったデータを見ていません。 市販のワームに含まれる物質が何かも調べていません。
プールへの換算は私の計算です。 論文に書かれている値ではありません。
続けて読むなら
- 色が消える距離で、魚は何を頼りに餌を見つけているのか— この記事の出発点。光が届かない距離に何が残るか
- 魚は色をどう見ているのか— 同じくシーバスのデータが見つからない話
- その匂いは、本当にシーバスのものか— こちらは人間が嗅ぐ側の話
- 海水はどこまで川を上ってくるのか— 匂いを運ぶ流れの話
- 「良く釣れるルアー」の正体— 自分の釣果では確かめられない、という話
使ったもの・参考文献
- 庄司隆行 (1999) 魚類化学感覚器のアミノ酸に対する応答、日本味と匂学会誌 6巻2号 169-178— 全文を読みました。ウナギとエイの閾値、酪酸に対する鈍さ、マダイ・ナマズ・ニジマスの3つの報告、嗅覚の応答スペクトルに魚種差が小さいこと、河川水のアミノ酸組成、人工河川水の実験、サケの母川回帰、L-セリンによる忌避
- 魚類の味覚受容(総説特集 水棲動物の化学受容)、日本味と匂学会誌 10巻1号— ナマズ科とコイ科で人間の100万倍の感度、甘味に応答しないこと、ペプチドや核酸に応答すること。要旨のみ読みました
- 魚類におけるにおい物質とその役割、におい・かおり環境学会誌 36巻3号— 魚類が揮発しない物質を高感度で受容すること
- プールへの換算と、水中の拡散の計算は私が行いました。分子拡散係数は 8×10⁻¹⁰ m²/s としています。私の計算で、測定値ではありません